
今日、人間がこの地球上にあるのは、生命誕生以来40億年をかけた生物の進化の結果である。嫌気性の微生物の発生の後、光合成を行う微生物、次に植物が誕生し、地球の大気環境を無酸素状態から酸素が20%を占めるまでに変化させてしまった。さらにはオゾン層が形成され、有害な紫外線がシールドされた結果、生物の陸上への進出が可能となったのである。動物は植物が作った有酸素の状態のもとで、しかも植物を食ってのみ生活できる、いわばパラサイトとしてスタートした。人間が自然からの収奪を過度に行うということは、パラサイトがホストを食い殺し、自分の存続を危うくすることにも似ている。自然界では共進化のプロセスによって、パラサイトとホストの関係は一方的な搾取から、しだいに共生へと変化していく。つまり、パラサイトはホストを殺すことなく節度ある(?)搾取を行い、ホストはパラサイトを利用するように関係が変わってくるのである。ただし、パラサイトが主導権を持ったり、ホストが優位に立ったり、両者が絶滅の危機に瀕したりした時期がそのプロセスの中には含まれるだろう。数万年〜数百万年の時間スケールで考えると、人間と自然の間にも同様のプロセスが働いて、いずれは両者の関係が落ち着くのかもしれないが、その前に人間が絶滅する可能性の方がずっと高いように思われる。しかし、我々は何もしないで絶滅を待つよりも、理性によって、なるべく早期に自然との安定した共生的な状態を作りたいと思う。これは、あらゆる人間の望みであろう。
このように考えると、地球環境研究の目標は、「人間活動と自然環境のバランスを維持する恒久的なシステム」、つまり「持続可能なエコロジカルシステム」の探究にあるということになる。ここではあえて「生態系」という言葉を使わずにカタカナを使った。その理由は、「生態系」という言葉がこれまであまりに様々な意味で使われていて、しかも人間を含まない自然の系を意味することが多いからである(たとえば森林生態系、湖沼生態系、草地生態系など)。個々の生態系を総称として指す場合には「ビオトープ」という用語を当てることにする。また、人間社会を含む系としてのエコロジカルシステムは「バイオスフェア」の概念に近いが、‘システム’の意味合いを残すため、ここでは「エコロジカルシステム」という言い方を採用する。
2.自然環境の破壊はなぜ起きるのか:コモンズの悲劇
コモンズとはある集団の人々なら、誰でもが使える社会的共有財産(特に共有地)のことである。社会的共有という言葉のもつ平和的な響きと裏腹に、悲劇は、私有財産の個人差(非対称性)によってもたらされる。ある人が、たとえば草地に牛を過剰に放牧して自分の公平な取り分よりも多くを得ると、その土地は損害を受けるが、その損害はその人と土地を共有している他のすべてのメンバーとによって均等に分担される。しかし、過剰な放牧による利益は、その利己的な人にだけもたらされる。したがって、保護しようという個人的な誘因は利用しようという誘因よりも弱いので、共有地は荒廃に至るまで過剰利用されることが避けがたくなる。過剰放牧が良くないことは誰でも理解できるのだが、それでも過剰放牧は「分っちゃいるけど止められない」ことなのである。こう言う状況を「コモンズの悲劇」と呼んだのはアメリカの生態学者ハーディンである。
ハーディン理論は自然環境の破壊がなぜ起きるかを明快に指摘したが、その後多くの研究者による歴史的事実の検証の試みから、様々な手段によって悲劇の解消が行なわれてきた例が多いことが明らかになっている。
コモンズの悲劇を救済する方法は基本的には2つである。ひとつは囲い(縄張りの設定)である。囲いとは共有地を共有でなくする手段である。農民がそれぞれ自分の小さな土地区画を持ち、その区画からの利益を手にするのと同様に、区画を維持するコストも負担する。すると、農民は誰もが過剰放牧をすれば自分自身が被害を被ることを知っているので、悲劇は解消してしまう。もっとも、資源の種類によっては再生速度や分布条件が異なるので、必ずしも悲劇が解消するとは言えないが。
また、囲いの方法は、囲いが可能である(排除の有効な手段が存在する)場合にしか通用しない。たとえば土地の区画がはっきりしない海の表面を考えてみよう。捕鯨海域や漁場は一般にコモンズの悲劇のえじきである。領海や地域割り当ての国際合意などは常に侵犯されて、難しい政治交渉の議題となる。植民地時代にはアメリカ大陸やアフリカ大陸はヨーロッパ人にとってのコモンズであった。最近は無料ではなくなったが、コストがべらぼうに安いという意味で、熱帯林の遺伝子資源は現在もなお先進諸国にとってコモンズである。熱帯のマングローブ林を切り払ってエビを養殖し、日本に大量に輸出するというのも、基本的には同じ構造である。生物多様性ばかりでなく、海上への不法投棄、大気への有毒物質の放出などにも同じメカニズムが働く。
もうひとつの救済法は、未来を予見する洞察力である。たとえば、ある漁師として自分が漁場で過剰な漁獲を行うのは、自分にとっても他の漁師にとっても良くないということは理解できる。しかし、ライバルたちが過剰漁獲を続ける限りは、自分が自制しても意味がないという見積もりが立てられる。他の漁師達が割り当て量をしっかり守りさえすれば、自分も喜んでそうするだろうということは、皆合意できる。けれども、これだけではこのシステムをうまく働かせることは非常に難しい。自分だけが置き去りにされる不安がいつもあって、結果的に皆が過剰な漁獲を続けてしまうのである。その点を解決するためには、法律や協定によって強制され、取り締まらなければならない。そうでないと、出し抜かれていないと確信できる人はいなくなるのだ。
この方法はうまくいく場合といかない場合がある。うまくいくのは共同体の中での合意が成立しやすい文化的背景があるとか、部外者の排除が可能な場合が多いようである。残念ながら国家レベルではうまくいっていない場合が多く、熱帯雨林は今も縮小を続けているし、漁業資源は減り続けている。ただし、個人レベルでの抑制はかなりのもので、ほとんどの人は互いの財産権を尊重して盗みを働かない。例外的に罪を犯したものに刑を執行してもらうために、税金という形で警察力に報酬を払うことに合意している。税金は公共資産の維持管理、汚染監視などにも費やされる。これらはコモンズの悲劇を避けようとする洞察力のたまものである。つまり、地域や国内のレベルであれば「法」や「協定」という手段が有効に働き得ることを示唆している。
このような認識の上に立ったとき、研究者に課されている最も大きな役割は、市民や行政が洞察力を高めるための論理や情報を提供することにあるだろう。すなわち、生物多様性がなぜ減少しているのか、生物多様性の保全がなぜ必要か、保全出来なければ何が起きるのか、どうすれば多様性が保全できるのかといった疑問への答を用意することである。そのためには生物多様性の研究はどうあるべきだろうか。
3.生物多様性研究(あるいは保全生物学)とは何か
地球上で長い年月をかけて生まれてきた生物群集は、人間の活動により地球上のあらゆる地域で打撃を受けており、多くの種は個体数が激減し、すでに絶滅した種、絶滅に瀕している種も多い。このような事態が生じた原因は、人間活動による直接的な自然の改変(有害化学物質の乱用、生息地の物理的破壊)ばかりでなく、動植物の乱獲、人間が持ち込んだ外来種との競争などによってもたらされたものである。
生物多様性の減少は、多くの場合人間にとっても好ましくない。人間は食糧、医薬品、工業原料などの多くを自然環境に依存して生活しているからである。しかし、生物多様性からうける恩恵はこのような直接生活に使われる商品だけではない。生物多様性の減少は人間の生活環境として重要な地球の空気や水、気候などを変化させる原因ともなりうるのである。
保全生物学はこのような危機的状況に呼応して発達してきた学際的科学である。図1に保全生物学の研究領域と関連分野を示した。保全生物学は生態学、進化生物学、個体群生態学、分類学、遺伝学がその中心となるが、これまで、これらの研究分野が人間による影響を排除した自然環境のもとでの法則性の追求を行ってきたのに対して、保全生物学では人間と自然との‘正しい関係’の探究が主眼となる。その際、‘正しい関係’とは何かを定義するためには社会学や経済学を含めた哲学的な考察が必要になる。したがって、保全生物学を生物学の単なる一分野として捉えるのは適当でない。自然科学の範疇にも収まらない、社会科学、経済学、哲学なども含めた総合科学としての性格を持っているのである。
‘正しい関係’が何かについて合意が得られるまでは、保全生物学は他の自然科学にはない特徴を持つことになる。それは、生物の多様性は「善」である、という作業仮説のもとに研究を進める点である。その裏返しとして、人間活動による種や個体群の絶滅は「悪」ということになる。このような保全生物学が基盤にしている作業仮説には合意が得られているわけではないが、その作業仮説に基づく保全生物学の営みは、人間の存続のためには正しい選択であると思われる(少なくとも生物多様性が「悪」であるとは考えにくい)。この作業仮説自体の証明も重要な研究テーマとなる。
このような保全生物学の守備範囲は、生物多様性減少分野がカバーすべき領域とほぼ一致していると考えて良い。すなわち、生物多様性減少の分野は世界的に科学として認められつつある保全生物学の発展に沿って研究を進めるのが良策であろう。

4.今後の研究の方向
(1)種の絶滅に関するプロセス研究
種多様性の減少は生物集団の絶滅によって生じるので、メカニズム研究としては絶滅プロセスの研究とほぼ同義である。しかし、絶滅という現象そのものは把握すら困難で、考えられる様々な要因のうちどれが重要で、どれが重要でないかを明らかにするにはコンピュータシミュレーションに頼らざるを得ない。計算機によって得られた結論が、現実の野生生物の保全にすぐに役立つとは思えないが、概念の整理には貢献するだろう。
これまでの研究における、ひとつの重要な結論は、遺伝的多様性の低下や環境悪化などの原因で増殖速度が下がる場合には、絶滅までの待ち時間がそうでないときに比べて極端に短くなる点である。このことから、現実の野生生物に関しては、その集団の絶滅危険度を簡単に診断できるような手法の開発が望まれる。その中には、遺伝的多様性、形態や色彩、病気抵抗性に関する研究が含まれる。また、外来生物の野生生物への影響は、あまり研究が進んでいないが、経済のグローバル化に伴って、今後きわめて重要な問題となると考えられる。
これまでの研究では、植物から昆虫、魚類、鳥類、哺乳動物にいたる様々な生物を対象にやり易い側面を拾い出して研究を行っている感がある。その対極として、1種類に絞って、あらゆる側面を明らかにするという手法も考えられる。それが可能ならば、特定の種に限っては、研究が著しく進展すると考えられる。ただし、乏しいマンパワーの条件下でどちらの研究戦略を採るべきかは議論を深める必要がある。
(2)生物多様性の保護管理に関する研究
生物多様性のレベルによって、保護管理の手法は全く異なったものになる。研究は管理手法の策定が目的となるので、各レベルに応じた研究戦略が必要であろう。
[1]遺伝子レベル(3)生物多様性モニタリング
遺伝子レベルの多様性保全は基本的には遺伝子資源の保存に関する問題である。遺伝子の構成は種によって異なることは周知の事実であるが、これまでの分岐分類学の蓄積を元に、遺伝的多様性の最も効率的な保全戦略の策定が必要となると思われる。たとえば、ある科に含まれる2つの属があり、ひとつの属には10種が含まれ、もうひとつの属には1種が存在するとする。この場合、11種の生物を同等に保全の対象とすべきであろうか。それとも、1種しか存在しない属の保全を重視すべきだろうか。このような問題に対する研究はまだほとんど試みられていないが、遺伝子レベルでの多様性保全には必要な議論であろう。
[2]集団/種レベル
集団/種レベルの野生生物保護管理には遺伝的劣化の防止、生息地保護、絶滅の危機に瀕した生物種の飼育繁殖と野生化などの様々な課題が含まれる。遺伝的劣化の防止は前項の遺伝子レベルの保全と混同されやすいが、全く異なる問題である。集団内の遺伝的多様性の維持機構は遺伝学が解決しようとしてきた大疑問のひとつでもある。野生生物集団が何らかの外部要因によって縮小されたとき、遺伝的多様性の低下が起きるのは必然的な現象であるが、それが遺伝的劣化につながるかどうかがひとつの重要な研究テーマとなる。また、遺伝的劣化を防ぐためにどのような手法がありうるのかは、今後の重要な問題であろう。もちろん、種の特性を把握し、その種の衰退を防ぐ技術の開発が重要なことは論を待たない。
[3]群集レベル(ビオトープレベル)
このレベルの研究テーマは、ある種の存在は、他の種との関連においてのみ成立しうるという事実を基礎にする。その基本は食物連鎖の構造解明にあるが、すべてが解明されるまで待ついとまは無い。一つのALTERNATIVEな手法は生物多様性保護地域の大きさと種多様性の関係から、好ましい保護地域の面積を割り出すことであろうが、この手法は今のところ成功しているとは言い難い。
その応用として、保護地域のデザインに関する研究がありうる。問題は「大きなひとつの保護地域」と「複数の小さな保護地域」とではどちらが有効か。保護地域を結ぶ「回廊」は有効かどうか。保護地域の形は円形がいいか、細長いのがいいか、などの疑問である。
[4]バイオスフェアレベル
これは新しい多様性レベルの研究提案である。複数のビオトープ(森林、河川、農耕地、住居地など)を含む河川流域などを対象として、各ビオトープの占める面積、モザイク性、孤立性などと生物多様性の関連について明らかにする。その情報を元に、最適なビオトープのサイズ、面積比率、配置を模索する。人間活動と生物多様性の両者を視野に入れることが出来るレベルで、GISの有効利用が成否のカギを握るだろう。
[1]経済価値並べた順番は、その価値が市民権を得ている順になっている。生物資源としての価値は、ほとんどの人が認める価値であろう。生態系サービス機能としての価値も、研究者が(乱暴な計算も多いが)価値をお金に換算してみせることで、少しずつ市民権を獲得しつつある。しかし、人類が抱いている危機感は、このような経済価値の消失だけから来るものではなさそうである。多くの人は、これとは異質な、しかもかなり大きな危機感をも抱えている。言い方を変えると「生物多様性には人類の精神が拠り所とする基盤のようなものが含まれているのではないか」、そういう感覚が普遍的に存在しているのである。これが、生物多様性の持つ文化的価値あるいは倫理的価値ということになるだろう。このような価値をどう評価したらいいだろうか。強引に何でもかんでも経済通貨に置き換える方法を探すべきだろうか。
(生物資源としての価値:木材供給地としての熱帯林、まだ利用価値の分らない動植物、遺伝子組み替えのための遺伝子資源などをふくむ。)
[2]人間生存環境の維持機構としての価値
(生態系サービス機能:CO2シンクとしての森林、海洋の気候調節機能、干潟の水質浄化機能など)
[3]文化的価値
(人類の文化を育んだ歴史的価値:芸術、祭り、教育、文学、歴史観への影響など)
[4]倫理的価値
(人類の進化を導いた歴史的価値:美意識、情緒、倫理観などに人間の進化の過程で自然(他の生物)から受けた影響。遺伝的背景を持つとも言われる)